2009年12月21日

トルコ「建国の父」の銅像移設-「両国友好の象徴に」

1890年に串本沖で遭難したオスマントルコの軍艦「エルトゥールル号」の発掘調査を来年1月に予定している串本町に、トルコ大使館から、初代トルコ大統領、ケマル・アタチュルク(1881~1938)の銅像が寄贈されることになった。町が18日発表した。アタチュルクは政教分離と西洋化でトルコを近代化させた「建国の父」とされている。

町によると、銅像は、新潟県柏崎市のテーマパーク「柏崎トルコ文化村」を民間会社が1996年に開園した際、トルコが記念に制作、寄贈したもの。高さ約4・5メートル、重さ約4トン。アタチュルクが馬に乗っている姿が表現されている。

トルコ文化村が経営難で2005年に閉園した後、銅像は園内に取り残されていた。トルコ大使館から串本町に「トルコと親交のある町に」と申し出があり、町が受け入れることになった。

銅像は07年の新潟県中越沖地震の後、倒壊するおそれがあるとして台座からも取り外されていた。銅像が放置されていることを知った串本町民らが今年になって移設を求める署名運動をしており、約8800人分が大使館に提出されていたという。

町は、来年6月に開かれるエルトゥールル号遭難の120周年記念式典に合わせて移設場所の選定や移設の作業を進める方針。田嶋勝正町長は「本当にありがたい話。両国友好のシンボルとして長く大切にしたい」と話した。

【朝日新聞】
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銅像の移設を求めて約8,800人の人が署名を行うとは、銅像を通して串本町の方々のトルコへの親睦心が感じられますね。きっと大切にされるのでしょうね。

さて何故和歌山とトルコは親睦が深いのか。有効秘話の一部をお伝えします。(記録等串本町資料より)


1890年(明治23年)9月16日、トルコ皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥール号が、帰路、暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し遭難するという事故が起きた。

この事故で、特使を含む518名は死亡したが、死を免れた69名は、地元民の手厚い救護により、一命を取り留めた。この時村人たちは、台風により漁ができなく、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護したのだった。また、遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。 この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられた。その後遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられた。このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。

この話に同情した「山田寅次郎」なる人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。 1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くした。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。

時代は下って、イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかった。空港にいた日本人は、パニックに陥った。
 そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

いつの時代でも助け合いの精神が大切なのですねik_14


Posted by icarus at 17:58